ゲームの映画化はなぜヘボいのか

 一時、映画のようなゲームというのは誉め言葉だったように思う。映像表現の面では映画には遥かに劣るゲームが、少しでも映画の高みに近付こうという動きだった。ゲームというのは、見せ方やストーリーテリングの面においては、常に映画を意識して発達していった。
結果、昨今ではついにゲームを原作とした映画も、以前ほど目新しいものではなくなりつつある。これはゲームにとっては1つの勝利なのかもしれない。しかし、ゲームを原作とした映画の中には、まだ抜きんでた傑作は現れていない。これには、ゲームを出自とする映画の歴史が短いという理由もあるだろう。だが、それ以上の構造的要因もあるように思う。
上にも挙げたようにゲームの映像表現やストーリーテリングが映画を意識して発達した結果、ゲームとしては優れた題材であっても、映画としてはあまりにも平凡なのだ。例えば映画原作となったヒット作、バイオハザードトゥームレイダー、どちらのゲームもストーリーや映像だけを映画と比べればあまりにも稚拙だ。そんな稚拙な劣化映画を元に本物の映画を作っても、傑作が生まれないのは当然のように思える。
もちろん、実際の映画化にあたっては映画に相応しい内容となるよう映像やストーリーが大幅に作り替えられるわけだが、そこに原作ゲームの魂は存在するだろうか? そもそもゲームの魂とは何か? それは映画の魂とはどう違うのか? 結局、映画にとって原作ゲームの存在の意義はなんだろう? 「***万本売れた大ヒットゲームの映画化」という商売のレッテルでしかないだろうか。だとしたら、いや、そうなのだろうが、それはいささか虚しい。
最終的には、メディアの違いと言ってしまえばそれまでだ。ゲームからその双方向性をはぎ取り既存の別メディアに落とし込めば、傑作が生まれないのは当然だ。仮に、非常に感動的なストーリーを持つゲームが生まれ、それが映画化され歴史に残るような名作となっても、それはストーリーの力であってゲームの力ではない。
では、ゲーム原作映画は永久にヘボいままなのか。そうなのかもしれない。だがそれは、ゲームがゲームというメディア固有の魂を持っていることの逆説的な証明でもある。